永劫回帰について【 永劫回帰と聞くこと 】 About Eternal Recurrence 【 Eternal Recurrence and Hearinng 】

 

 

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永劫回帰・・・ニーチェが提唱したこの考えは、僕にとってどのような意味を持つのか。同じ物が回帰してくる というこの考えは、そもそも哲学的なものなのか?一つの力を有する概念なのか?何かを説明する理論なのか?それとも哲学的なものを脱して万人あるいは個人 に対する啓示であり、悦ばしい知らせなのか?

 

ニーチェの言葉使いは非常に巧みであり、意地の悪い言い方をすれば謀略的であるとさえ言える。自らの考え方の説明とは別次元で聞き手に言葉を届ける事への熱意が満ち溢れている。この意味で通常の哲学的手続きとは異なる。哲学とは学問的な学びであり研究をする場であり、理論的なもの中に入り込まざるをえないものであり、それは他の学問と同様、〈聞く耳〉を持たない者には届かない。

 

だがニーチェは〈聞く耳〉を持つ事を要求する聞かざるをえないような言葉を使う〈神の死〉〈超人〉〈道徳〉〈永劫回帰〉〈力への意志〉等々誰でも聞いたことのある言葉であり、ニーチェ以前の哲学における最高度の理論的達成であるヘーゲルの場合とは大違いだ。さらにニーチェの場合、ドラマティックなのは自らの人生が折り重なって、その言葉がより届くようになっている・・・発狂した哲学者として。

 自らの言葉を届ける事、それは自らの言葉を聞いてもらう事であり、それはおそらくニーチェが自らに言葉を届け、自らに言葉を聞かせる事でもある。ここにこそ ニーチェの言葉の誘惑的な秘密があり、他の哲学者との決定的な違いがある。ニーチェが意識的に気付いていたか分からないが、おそらく〈言葉を聞く〉とはそれまでの自分とは違う〈自分 - が - 聞く〉事でありそれは新たなる〈経験〉である。別の言い方をすれば、自分が聞いた内容の中に留まるのではなく言葉を聞く自分は何であるか言葉を聞く者は誰であるのか誰がこの言葉を聞いているのか自分でありながらも自分ではない者なのかと思わせる〈経験〉である。

デリダ以来の命題〈自分が - 話す - のを聞く〉、この行為は幾つもの要素と出来事が絡み合っているので詳細な説明が必要な命題だが、ここでは話す自分と聞く自分が違う事に注意したい。〈自分が - 話す〉とは同時に〈自分が - 聞く〉事であるがこれを〈声〉を媒介にして主体の自己同一性を脱構築する分析の方向ではなく既にその事(別なる者としての聞く自分)に気付いている(無意識的にであれ)者がどう振る舞ってきたかという事をニーチェから読み取る方へ行こうニーチェの哲学の秘密とはまさに〈聞く事(者)の秘密〉といえるだろうそして〈聞く者〉は自らそれに気付き自らを〈新たなる者〉として生き直す事になる〈自分が - 話す - のを聞く〉と言う時、そこには最初から分裂した話す自分と聞く自分がいるわけではない。話された言葉を聞くという行為自体が新しい主体としての自分を生み出している。だが、そこで使われる言葉が馴染みで注意を促さないものであれば〈聞く者〉の新しさは気付かれずに自己同一的な自分のままで終わる。主体は自分が思っている以上に自分を縛り付けている自分を縛り付ける者は新しい〈経験〉に気付かない

 

だからニーチェが自分の事をキリストとかディオニュソスとかレセップスなどと言う時、そこには発狂して崩壊した自我があるのではなく(少なくとも、その文章 を書いている時には)、言葉を選び、聞く者に届けようとする明晰な自我が残っている。そしてニーチェが自分の事を特定の固有名で言う時、誤解されがちだが ニーチェは狂気ゆえ幾つもの固有名を使う程の妄想に囚われているではなく、自分を含めて聞く者に、新しい経験を与え、新しい主体を促していると言える。通常は聞かない言葉の効果により人は注意深く聞き新しい経験をしその経験の当事者としての新しい自分を発見するのだ。ここにこそ主体における自己の更新を促すニーチェの哲学の意義があるのではないだろうか。

 

では永劫回帰はどう聞き取ればいいだろう。永劫回帰とはその意味深さを感じさせる名称により、力への意志と並んでニーチェにおける主要哲学概念として取り上げられるが、〈聞く者〉としては〈主体の永続的な自己更新〉として受け取るべきではないのか。同じ物が回帰してくるのは一体何処なのか?何処に何が向うのか?自分という主体が自分に帰って来るのではないのか。それは自分という主体 における教説であり経験ではないのか。そうでなければ、その客観性はあくまでジルス・マリアでの主観的な体験を言語化するために装いをされたものに過ぎないのでなければ、永劫回帰とは哲学史の中に数多くの概念と共に書き込まれ埋もれてしまうしかない。ニーチェ永劫回帰が埋没せずに異様な煌きを持つのは、自分のジルス・マリアでの主観的な体験を客観的な言葉によって全面的に擁護しているからだ。客観的物差で自分の体験を吟味するのではなく〈一つの真理〉として名指し〈聞く者〉に呼びかけるそこでは理論的公平さではなく、〈聞く者〉に言葉を届け〈新しい者〉を呼び起こすために練り上げられた思考こそが重要となる。その意味で永劫回帰とはそれを〈聞く者〉たちが自らに関わらざるを得ないようにする〈過剰性〉を書き込んだ思考である。幾つもの主体の系列を踏破する事そしてそれらの主体が自分であると肯定する事それが出来た時そこにいた〈私〉には〈強度〉の波が押し寄せ〈自分である ー という経験〉の覚醒が起き高揚するのだ

 

しかし永劫回帰が 同じものの回帰であり、それが個人への試練と克服、そこからの悦びへの道筋を示すとしても、それが哲学的概念として提示され書き込まれると世界の経験が積 み重なる程に倫理的に耐え難いものになっていく。人生における悲惨な出来事、災害、戦争・・・誰もこれらの繰り返しを望まないだろう。永劫回帰はそれ自身の曖昧さではなく倫理的要請によって哲学的概念としてはその意義を失っていくしかないだろう。

 

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永劫回帰について【 永劫回帰と倫理 】へ続く・・・

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