存在について【 存在と永遠 】 About Existence【 Being and Eternity 】
存在について【 存在と経験 】の続き
http://mtreal.hatenablog.com/entry/2015/03/05/172701
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もし僕が生きているのなら・・・僕という肉の塊に〈意志〉によって、〈力〉への途上において、ここに横たわる肉の塊に息を吹き込み〈力〉を及ぼす主権者として自らを〈人 - である〉と強制的に存在させなければ、〈僕〉とは〈無〉の〈存在〉でしかない。ただし〈無〉とは何もないという事実ではない( 最初から何も無いのであれば、無いことすら分からないだろう )。
僕という肉の塊が息絶えてここにあるとしたら、この遺体こそが〈無〉を示す表徴として〈無〉を存在させているともいえるという意味で( 無いものが〈在る〉・・・これは〈存在〉という概念の恐ろしさを示す事でもある )、もうそこには〈僕〉の代わりに〈無〉しかない・・・。
〈存在〉の恐ろしさとは、この〈現れ〉の〈露呈〉という仕方の冷酷な無慈悲さではないだろうか。
理由・意図・言い訳の一切が届く前に既に現前する〈露呈〉という仕方は、当のそれが存在させる〈物〉が例え空虚な〈無〉であろうと現前させてしまう無慈悲な暴力であり、取り返しがつかず、抵抗することの出来ない〈現実〉でもある。
〈力への意志〉とは、あくまで自らを定立しようとする(でも成し遂げる事が出来ないままでいる・・・)運動であり、内包する強度・エネルギーを高めていく〈内在的で潜勢的なもの〉だが・・・〈存在〉とは〈内在的で潜勢的なもの〉の強度・熱量を奪い容赦なく断ち切り、固着化により〈露呈〉を可能にする冷え切った宇宙だといえる。
だから〈存在〉とは、〈何者かが在る〉という事でもなく、洗練された哲学の中に見出されるように〈一者〉が別のものによって〈在る〉という〈離接的総合〉でもなく、 〈人間〉に固有のものでもなく、〈露呈〉という〈空間化〉を可能にならしめる〈非人間的原理〉なのだ。
自分が〈在る〉というのは、最も人間的なものから離れた〈現実的なこと〉である。それ故に、現されるべき何かがあるという事が重要な のではなく、〈露呈〉という〈現れ〉が重要なのだ。それを〈現象〉と捉えると〈現される何らかの実体〉という概念が付き纏う事になる。
そうではなく、〈現れ〉とは端的に言って〈時間〉の〈現れ〉であり、〈時間〉の〈具現化〉であり、〈時間〉の〈肉化〉、という〈非人間的原理〉である。ここで言う〈時間〉とは無規定的な〈永遠〉であり、さらに言うなら〈現れ〉とはその〈永遠〉それ自体のわずかな〈停止〉である。その時において〈永遠〉は〈具現化〉され、〈今〉が開かれ、〈場〉が開かれる。
ただし、これを〈時間〉を主語として〈時間〉が〈現れる〉と考えると、たんなる現象としての〈現されるべき時間〉と捉えられてしまう。そうではなく最初に〈時間〉が無条件にあるわけではない。永遠の平面においては〈無〉の緊張、緩和、収縮、拡大、移動、持続、崩壊、といった運動間の移行及び完了があるのであり、移行が成し遂げられた時に消滅する過程こそ永遠を〈止揚〉する〈時間〉として非人称的に現れ、それは事物が〈在る〉という形式になる。〈存在〉の概念を考える時、〈空間〉とは〈時間〉の変種(ヴァリエーション)とさえ言えるだろう。
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