存在について【 存在と経験 】 About Existence【 Being and Experience 】

 

 

意志について【3】の続き 

http://mtreal.hatenablog.com/entry/2015/03/01/173221

 

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この〈存在〉の力によって僕は〈存在する〉・・・だが〈存在する〉とは自分が生きているという実感や経験とは程遠い、それどころかそういう個人的なものではない異質な〈現実〉であり、その侵入である

その〈存在〉の場面において僕は自らの経験において異質な〈存在〉という〈現実〉に出会う。それは僕の経験には収まりきれない遥か彼方から続いてくる出来事、僕個人など蝋燭の炎のように吹き消されてしまうようなものとしか感じ取れなくなるような耐え難い出来事、この〈現実〉に遭遇する時、僕は自分を支えきれず壊れてしまうかもしれない残酷な出来事、その〈現実〉の威力が凄すぎて無意識的に受け流して無知である事しか選択出来ないような出来事、という〈超越論的経験〉でもある。僕自身の中での経験における出来事なのに、僕からは限りなく遠く離れた外部性の経験が今ここで起きているという事だ

 

〈僕〉が自分を〈在る〉という事をコギト(我思う故に我あり)のような〈思考〉で確信するのは早過ぎる。まず〈自分〉と〈在る〉が短絡的に結びついており〈在る〉という事が経験済みでそれ以上扱われる事がない〈在る〉事は〈僕〉の根拠であるどころか〈僕〉を不安にさせる〈現実〉であるのに自らの〈存在〉の根拠の源でありたがる〈経験〉は〈存在〉という外部性に遅れてでしか可能にならない

〈存在〉が〈経験〉に先立つと言う時それは認識や実感という通常の〈経験〉が取り払われてどう理解していいのか分からない〈存在〉という〈現実〉が顔を覗かせる時である。

そうは言っても、〈存在〉も思考されるからこそではないかという考えもあるかもしれないが、では誰かが僕の遺体を目の前にした時はどうなるだろうか?人はそれを認識しても〈存在する〉と言う気にはとてもならないだろう、生物的反応が停止していると思っているのだから。では生きていると認識できれば〈存在する〉といえるのか?

 

いやそうではない・・・僕の遺体とは一体何か?それを見る者に亡くなっていると思わせるものとして、そこに・・・在る・・・のではないか。生前の僕とは違うものとして、生きる又は死ぬといった生物学的判定を越え出て〈存在〉の次元を開いているのではないか〈存在〉とは認識・思考の〈経験〉によって確信されるものではない。僕の遺体は僕が生きてきた〈生の持続〉を示すのと同時にこの先はもういないという〈無の持続〉を示している。それは僕が遺体となり自らの意志が示せなくなった時そこには〈永遠の時間〉が現れるという事でもある。ここに横たわっている者がかって過ごしてきた時間ともうこれからはいない時間である。

 

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存在について【 存在と永遠 】へ続く・・・

http://mtreal.hatenablog.com/entry/2015/03/07/213203