永劫回帰について【 永劫回帰と倫理 】 About Eternal Recurrence 【 Eternal Recurrence and Ethic 】
http://mtreal.hatenablog.com/entry/2015/03/11/103333
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では〈永劫回帰〉が哲学的なものでなければ、それは何であるというのか?倫理的に耐え難い哲学概念が未だ残るべきなのか?だが・・・・・もしそれが〈哲学的なもの〉ではなく、まさに〈倫理的なもの〉だとしたらどうであろうか。
倫理的なものに曝されていたものが〈哲学的なもの〉ではなく実は〈倫理的なもの〉自身であるとしたら、そこで起こっていることは、〈倫理的なもの〉における無規定なそれ自体から自己反省するものへの移行なのではないか。そしてこの移行は哲学的な書込み空間ではなく〈聞く者〉においてなされる移行ではないだろうか。〈聞く〉という行為は、〈聞く者〉という主体においてであれ〈聞かれるもの〉という内容においてであれ、その行為に関連する事態を確実なものとして固定するどころか、事態を違うものへと変貌させる行為である。受動的でありながらも、それは違う事態を開始する行動であり、事態を動かす事である。
〈聞く者〉において、聞き取られる事において〈永劫回帰〉は甦る。哲学空間に書き込まれた概念としての〈永劫回帰〉は、〈聞く者〉における〈経験〉の中に置き換えられ倫理的なものへと変貌する。〈倫理〉とは自分であれ、状況であれ、何らかのものが自らの中の全く異質な〈他性〉(他者ではない)に出会うことによって始まるものである。
ここにおいて〈永劫回帰〉は自己反省した〈倫理的なもの〉の姿として〈個人の倫理〉になるといえる。つまり他者の倫理的要請に晒されて消滅していく概念としての一般的なものから、誰からも要請されるべきでない(自分を生きるのはその人にしか出来ないのだから)個人の生き方としての特殊なものへの移行である。これこそ〈永劫回帰〉自身の回帰であり、教説という同一物が新しき物として自らの許に帰る事である。それは教説自身による教説、教説の教説でもあり、〈永劫回帰〉がニーチェに感銘を与え、さらに人々を巻き込むように、驚異的な哲学教説は自らの許を離れ人々の間での倫理的試練を通過する事によって再び自らの許に帰っていくのである。さらに言うなら〈聞く者〉において〈永劫回帰〉は特殊な〈ニーチェ - の - 永劫回帰〉から〈聞く者としての各個人 - の - 永劫回帰〉として普遍的なものになるといえるのではないだろうか。
ああ、しかし自分の事を神やキリストであるとは到底言えるわけがないと人が言うのは当然だ。特殊な固有名を幾つも名乗ることは単なる虚言癖に受け取られてし まうと分かっているから。そう、ならば〈永劫回帰〉の要である幾つもの主体の系列を踏破するという考え方において、必ずしも特殊な固有名を名乗る事はその絶対的条件ではないと言おう。それはあくまでニーチェの場合であり、ニーチェが〈聞く者〉に伝えるためであったのだ。〈聞く者〉はその先を考えなければならない・・・。
人がいまの〈自分〉になるために駆け抜けてきた時間において、人は〈自分 - で - ある〉事をどれだけ自覚してきたというのだろう。仮に自覚した者がいるというのなら、〈自分 - で - ある〉とは一体何か答えられるだろうか。それは他人ではないという否定的身振りともう一つ、その人が積み重ねてきた時間の経験による保障、つまりその時間のなかに居た者がずっと同じ者であった、つまりそれが自分だという意識であろう。
では、その人が積み重ねてきた時間の積み重ねが〈自分 - で - ある〉事の安心を与えるものであるとしても、それ以上に〈自分 - で - ある〉事に忠実である為には、その時間の秩序に反して、あるいは先行して、あるいは切断してでも〈自分 - で - ある〉事の〈経験〉が一つの〈出来事〉であり、その〈到来〉である事を知らなくてはならない。
そこにおいて〈自分 - で - ある〉事を経験する者とは〈何者でもない者〉である。〈自分 - で - ある〉事の〈経験〉が〈出来事〉であるのは、〈何者でもない者〉という〈主体〉とっての事なのだ。この〈何者でもない者〉が自らの時間における経験の系列を引き受け、意識する事、それが〈自分 - で - ある〉という事であり、そこにおいて〈自分 - で - ある〉事が〈出来事〉となる。なので〈固有名〉とは結局の所、経験の系列を識別するための刻まれた標識なのであって、〈自分 - で - ある〉事を経験する者が常に同じ〈固有名〉である必要はないのだ。経験がただ一つではなく、幾つもの経験がある、つまりそこに差異があり、強度が発生すると感じるのなら、経験毎にそれらを識別する為の複数の〈固有名〉があっても不思議はない。ただ伝達空間において混乱が生じるという点を除けば・・・。
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永劫回帰について【 永劫回帰と聞くこと 】 About Eternal Recurrence 【 Eternal Recurrence and Hearinng 】
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〈永劫回帰〉・・・ニーチェが提唱したこの考えは、僕にとってどのような意味を持つのか。同じ物が回帰してくる というこの考えは、そもそも哲学的なものなのか?一つの力を有する概念なのか?何かを説明する理論なのか?それとも哲学的なものを脱して万人あるいは個人 に対する啓示であり、悦ばしい知らせなのか?
ニーチェの言葉使いは非常に巧みであり、意地の悪い言い方をすれば謀略的であるとさえ言える。自らの考え方の説明とは別次元で聞き手に言葉を届ける事への熱意が満ち溢れている。この意味で通常の哲学的手続きとは異なる。哲学とは学問的な学びであり研究をする場であり、理論的なもの中に入り込まざるをえないものであり、それは他の学問と同様、〈聞く耳〉を持たない者には届かない。
だがニーチェは〈聞く耳〉を持つ事を要求する。聞かざるをえないような言葉を使う。〈神の死〉〈超人〉〈道徳〉〈永劫回帰〉〈力への意志〉等々。誰でも聞いたことのある言葉であり、ニーチェ以前の哲学における最高度の理論的達成であるヘーゲルの場合とは大違いだ。さらにニーチェの場合、ドラマティックなのは自らの人生が折り重なって、その言葉がより届くようになっている・・・発狂した哲学者として。
自らの言葉を届ける事、それは自らの言葉を聞いてもらう事であり、それはおそらくニーチェが自らに言葉を届け、自らに言葉を聞かせる事でもある。ここにこそ ニーチェの言葉の誘惑的な秘密があり、他の哲学者との決定的な違いがある。ニーチェが意識的に気付いていたか分からないが、おそらく〈言葉を聞く〉とはそれまでの自分とは違う〈自分 - が - 聞く〉事であり、それは新たなる〈経験〉である。別の言い方をすれば、自分が聞いた内容の中に留まるのではなく、言葉を聞く自分は何であるか、言葉を聞く者は誰であるのか、誰がこの言葉を聞いているのか、自分でありながらも自分ではない者なのか、と思わせる〈経験〉である。
デリダ以来の命題〈自分が - 話す - のを聞く〉、この行為は幾つもの要素と出来事が絡み合っているので詳細な説明が必要な命題だが、ここでは話す自分と聞く自分が違う事に注意したい。〈自分が - 話す〉とは同時に〈自分が - 聞く〉事であるが、これを〈声〉を媒介にして主体の自己同一性を脱構築する分析の方向ではなく、既にその事(別なる者としての聞く自分)に気付いている(無意識的にであれ)者がどう振る舞ってきたかという事をニーチェから読み取る方へ行こう。ニーチェの哲学の秘密とは、まさに〈聞く事(者)の秘密〉といえるだろう。そして〈聞く者〉は自らそれに気付き、自らを〈新たなる者〉として生き直す事になる。〈自分が - 話す - のを聞く〉と言う時、そこには最初から分裂した話す自分と聞く自分がいるわけではない。話された言葉を聞くという行為自体が新しい主体としての自分を生み出している。だが、そこで使われる言葉が馴染みで注意を促さないものであれば〈聞く者〉の新しさは気付かれずに自己同一的な自分のままで終わる。主体は自分が思っている以上に自分を縛り付けている。自分を縛り付ける者は新しい〈経験〉に気付かない。
だからニーチェが自分の事をキリストとかディオニュソスとかレセップスなどと言う時、そこには発狂して崩壊した自我があるのではなく(少なくとも、その文章 を書いている時には)、言葉を選び、聞く者に届けようとする明晰な自我が残っている。そしてニーチェが自分の事を特定の固有名で言う時、誤解されがちだが ニーチェは狂気ゆえ幾つもの固有名を使う程の妄想に囚われているではなく、自分を含めて聞く者に、新しい経験を与え、新しい主体を促していると言える。通常は聞かない言葉の効果により、人は注意深く聞き、新しい経験をし、その経験の当事者としての新しい自分を発見するのだ。ここにこそ主体における自己の更新を促すニーチェの哲学の意義があるのではないだろうか。
では〈永劫回帰〉はどう聞き取ればいいだろう。〈永劫回帰〉とはその意味深さを感じさせる名称により、〈力への意志〉と並んでニーチェにおける主要哲学概念として取り上げられるが、〈聞く者〉としては〈主体の永続的な自己更新〉として受け取るべきではないのか。同じ物が回帰してくるのは一体何処なのか?何処に何が向うのか?自分という主体が自分に帰って来るのではないのか。それは自分という主体 における教説であり経験ではないのか。そうでなければ、その客観性はあくまでジルス・マリアでの主観的な体験を言語化するために装いをされたものに過ぎないのでなければ、〈永劫回帰〉とは哲学史の中に数多くの概念と共に書き込まれ埋もれてしまうしかない。ニーチェの〈永劫回帰〉が埋没せずに異様な煌きを持つのは、自分のジルス・マリアでの主観的な体験を客観的な言葉によって全面的に擁護しているからだ。客観的物差で自分の体験を吟味するのではなく、〈一つの真理〉として名指し〈聞く者〉に呼びかける。そこでは理論的公平さではなく、〈聞く者〉に言葉を届け〈新しい者〉を呼び起こすために練り上げられた思考こそが重要となる。その意味で〈永劫回帰〉とはそれを〈聞く者〉たちが自らに関わらざるを得ないようにする〈過剰性〉を書き込んだ思考である。幾つもの主体の系列を踏破する事、そしてそれらの主体が自分であると肯定する事、それが出来た時、そこにいた〈私〉には〈強度〉の波が押し寄せ、〈自分である ー という経験〉の覚醒が起き、高揚するのだ。
しかし〈永劫回帰〉が 同じものの回帰であり、それが個人への試練と克服、そこからの悦びへの道筋を示すとしても、それが哲学的概念として提示され書き込まれると世界の経験が積 み重なる程に倫理的に耐え難いものになっていく。人生における悲惨な出来事、災害、戦争・・・誰もこれらの繰り返しを望まないだろう。〈永劫回帰〉はそれ自身の曖昧さではなく倫理的要請によって哲学的概念としてはその意義を失っていくしかないだろう。
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http://mtreal.hatenablog.com/entry/2015/03/14/140337
存在について【 存在と永遠 】 About Existence【 Being and Eternity 】
存在について【 存在と経験 】の続き
http://mtreal.hatenablog.com/entry/2015/03/05/172701
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もし僕が生きているのなら・・・僕という肉の塊に〈意志〉によって、〈力〉への途上において、ここに横たわる肉の塊に息を吹き込み〈力〉を及ぼす主権者として自らを〈人 - である〉と強制的に存在させなければ、〈僕〉とは〈無〉の〈存在〉でしかない。ただし〈無〉とは何もないという事実ではない( 最初から何も無いのであれば、無いことすら分からないだろう )。
僕という肉の塊が息絶えてここにあるとしたら、この遺体こそが〈無〉を示す表徴として〈無〉を存在させているともいえるという意味で( 無いものが〈在る〉・・・これは〈存在〉という概念の恐ろしさを示す事でもある )、もうそこには〈僕〉の代わりに〈無〉しかない・・・。
〈存在〉の恐ろしさとは、この〈現れ〉の〈露呈〉という仕方の冷酷な無慈悲さではないだろうか。
理由・意図・言い訳の一切が届く前に既に現前する〈露呈〉という仕方は、当のそれが存在させる〈物〉が例え空虚な〈無〉であろうと現前させてしまう無慈悲な暴力であり、取り返しがつかず、抵抗することの出来ない〈現実〉でもある。
〈力への意志〉とは、あくまで自らを定立しようとする(でも成し遂げる事が出来ないままでいる・・・)運動であり、内包する強度・エネルギーを高めていく〈内在的で潜勢的なもの〉だが・・・〈存在〉とは〈内在的で潜勢的なもの〉の強度・熱量を奪い容赦なく断ち切り、固着化により〈露呈〉を可能にする冷え切った宇宙だといえる。
だから〈存在〉とは、〈何者かが在る〉という事でもなく、洗練された哲学の中に見出されるように〈一者〉が別のものによって〈在る〉という〈離接的総合〉でもなく、 〈人間〉に固有のものでもなく、〈露呈〉という〈空間化〉を可能にならしめる〈非人間的原理〉なのだ。
自分が〈在る〉というのは、最も人間的なものから離れた〈現実的なこと〉である。それ故に、現されるべき何かがあるという事が重要な のではなく、〈露呈〉という〈現れ〉が重要なのだ。それを〈現象〉と捉えると〈現される何らかの実体〉という概念が付き纏う事になる。
そうではなく、〈現れ〉とは端的に言って〈時間〉の〈現れ〉であり、〈時間〉の〈具現化〉であり、〈時間〉の〈肉化〉、という〈非人間的原理〉である。ここで言う〈時間〉とは無規定的な〈永遠〉であり、さらに言うなら〈現れ〉とはその〈永遠〉それ自体のわずかな〈停止〉である。その時において〈永遠〉は〈具現化〉され、〈今〉が開かれ、〈場〉が開かれる。
ただし、これを〈時間〉を主語として〈時間〉が〈現れる〉と考えると、たんなる現象としての〈現されるべき時間〉と捉えられてしまう。そうではなく最初に〈時間〉が無条件にあるわけではない。永遠の平面においては〈無〉の緊張、緩和、収縮、拡大、移動、持続、崩壊、といった運動間の移行及び完了があるのであり、移行が成し遂げられた時に消滅する過程こそ永遠を〈止揚〉する〈時間〉として非人称的に現れ、それは事物が〈在る〉という形式になる。〈存在〉の概念を考える時、〈空間〉とは〈時間〉の変種(ヴァリエーション)とさえ言えるだろう。
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存在について【 存在と経験 】 About Existence【 Being and Experience 】
意志について【3】の続き
http://mtreal.hatenablog.com/entry/2015/03/01/173221
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この〈存在〉の力によって僕は〈存在する〉・・・だが〈存在する〉とは自分が生きているという実感や経験とは程遠い、それどころかそういう個人的なものではない異質な〈現実〉であり、その侵入である。
その〈存在〉の場面において僕は自らの経験において異質な〈存在〉という〈現実〉に出会う。それは僕の経験には収まりきれない遥か彼方から続いてくる出来事、僕個人など蝋燭の炎のように吹き消されてしまうようなものとしか感じ取れなくなるような耐え難い出来事、この〈現実〉に遭遇する時、僕は自分を支えきれず壊れてしまうかもしれない残酷な出来事、その〈現実〉の威力が凄すぎて無意識的に受け流して無知である事しか選択出来ないような出来事、という〈超越論的経験〉でもある。僕自身の中での経験における出来事なのに、僕からは限りなく遠く離れた外部性の経験が今ここで起きているという事だ。
〈僕〉が自分を〈在る〉という事をコギト(我思う故に我あり)のような〈思考〉で確信するのは早過ぎる。まず〈自分〉と〈在る〉が短絡的に結びついており〈在る〉という事が経験済みでそれ以上扱われる事がない。〈在る〉事は〈僕〉の根拠であるどころか〈僕〉を不安にさせる〈現実〉であるのに。自らの〈存在〉の根拠の源でありたがる〈経験〉は〈存在〉という外部性に遅れてでしか可能にならない。
〈存在〉が〈経験〉に先立つと言う時、それは認識や実感という通常の〈経験〉が取り払われてどう理解していいのか分からない〈存在〉という〈現実〉が顔を覗かせる時である。
そうは言っても、〈存在〉も思考されるからこそではないかという考えもあるかもしれないが、では誰かが僕の遺体を目の前にした時はどうなるだろうか?人はそれを認識しても〈存在する〉と言う気にはとてもならないだろう、生物的反応が停止していると思っているのだから。では生きていると認識できれば〈存在する〉といえるのか?
いやそうではない・・・僕の遺体とは一体何か?それを見る者に亡くなっていると思わせるものとして、そこに・・・在る・・・のではないか。生前の僕とは違うものとして、生きる又は死ぬといった生物学的判定を越え出て、〈存在〉の次元を開いているのではないか。〈存在〉とは認識・思考の〈経験〉によって確信されるものではない。僕の遺体は僕が生きてきた〈生の持続〉を示すのと同時にこの先はもういないという〈無の持続〉を示している。それは僕が遺体となり自らの意志が示せなくなった時、そこには〈永遠の時間〉が現れるという事でもある。ここに横たわっている者がかって過ごしてきた時間ともうこれからはいない時間である。
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存在について【 存在と永遠 】へ続く・・・
http://mtreal.hatenablog.com/entry/2015/03/07/213203
意志について【3】 About Will
意志について【2】の続き
http://mtreal.hatenablog.com/entry/2015/02/27/160301
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〈力〉が自らを定立する〈力への意志〉という〈動き〉はそれ自体でありえるのだが、それらが〈すべて〉という定義不可能なものの意味では直接的に実現されることはない。
1%の実現なのか、100%の実現なのか、100%がすべてといえるのか、そもそも100%とはどんな状態なのか・・・誰も分からない・・・。
ここにおいて〈力への意志〉の動きは、どこまでも達成されることのない残余の軌跡の集合とさえいえる。たしかに〈力への意志〉はそれが自らに関わる運動であるが、それはあくまで自らを示すために〈現れー出ーようとする〉試みであり、自らの位相に留まり他を知らないがゆえの試みの失敗の集合であるとさえ言える。
そもそも〈力への意志〉の動きは潜勢的であり自らを最大限に高めようとするが、それは常に自らの定立化の過程の渦中にある事しか出来ない・・・〈現れー出ーようとする〉が〈現れー出る〉とは何か知らないので自らの位相においては〈現れー出る〉ことが出来ない。〈潜勢的なもの〉とはいつか実現される原型的なものではなく、それ自体では直接的に実現されることはないが、隣接する〈存在〉の次元において〈離接的総合〉という形で実現されるものである。
そして〈現れー出る〉とは〈力への意志〉の動きとは別次元の〈出来事〉としての〈存在〉である。
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存在について【 存在と経験 】へ続く・・・
http://mtreal.hatenablog.com/entry/2015/03/05/172701
意志について【2】 About Will
意志について【1】の続き
http://mtreal.hatenablog.com/entry/2015/02/24/174700
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意志とは一つの力・エネルギーとして志向性を持ち目標などの対象物を探すのかもしれないが、それ自体としては潜勢的に活動する。
この場合、〈潜勢的に活動する〉とは、その活動が自らの中で自らに向かうことしか出来ないが、その活動は自らに関わり折り重なる事によって、自らをひとつの力として定立しようとする。〈力〉が自らに向かい自らを打ち立てようとするこの軌跡は〈力への意志〉といえる。
〈意志〉とは常に自らを現し打ち立てようとする〈力〉そのものでなくて何であろう。
だが・・・この意志はあくまで〈力への意志〉であって所有するという意味での〈僕〉の意志ではない・・・。〈意志〉がそれ自体であるということは・・・その意志が〈ある - ということ〉自体は・・・僕の意志とは無関係に〈ある〉。
〈僕〉のモノのように思えた〈意志〉を〈僕〉以前にある〈力〉の動きが複数的に錯綜する状況にあるモノとして考えてみる。
つまり、〈僕〉という身分でさえ〈力への意志〉という運動の中では系列的なものとして配置されることになる・・・。
〈意志〉とは〈僕〉の意のままになるという事ではなく、〈力〉それ自体の〈意志〉であり、それに乗り込む事は出来るが〈僕〉が支配できるものではない。
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意志について【3】へ続く・・・
http://mtreal.hatenablog.com/entry/2015/03/01/173221
意志について【1】 About Will
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今まで何かをしようとした。そして何かをした。だが何も出来てない。
でも意志はある。何かをしようとする意志は。その意志にもとづいて何かをした。
だが上手く出来なかった・・・。
残された時間、これからもそうなのだろう。
何かをしようとして何も出来ないのだろう。
何かをしようとする意志だけは懲りずに残るのだろう。
だが・・なぜ意志はなお残るのか?いっそのこと意志はなくならないのか?自分がある限りは・・・?
そもそも意志とは何か?
何かの対象や目標を意志するという事か?何かを意志しない限り、意志はありえないのか?
そうなのかもしれないが、今は対象とは別に意志それ自体を一つの運動として考えてみる。
そうする事によって、目標を定めても繰返し失敗してきた僕に、なぜ何かをしようとする意志が残っているのか?
そしてなぜ生き続けるのか?
生きようと意志しているからなのか?
生きようと意志しなくても何とか生き続けているのは、やはり意志があり、それが僕の意図を超え出るものなのだからか?
そうだとしたら、それは僕の個人的意志とはいえないのではないか?
それは〈生〉という不可逆的な流れの構造が〈僕〉を超えてあり、〈僕〉はそれに乗っかっているだけなのではないか・・・?
このような〈問い〉が浮かび上がり、〈僕〉は考え続ける事になる・・・。
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意志について【2】へ続く・・・・・
http://mtreal.hatenablog.com/entry/2015/02/27/160301